系譜
系譜
赤田渡邊氏
本庭を作庭した赤田氏の系図は古く、ルーツは嵯峨源氏である。
その後、羅生門の鬼・大江山酒呑童子を退治したとされる渡邊綱に至り
渡辺等の代で越後の国 赤田保地頭を務めた以後、赤田姓を名乗ることとなる。南北朝時代近江の佐々木氏に誘われて近江の土豪と成る。
赤田左衛門尉栄の代では、近江國佐々木氏の旗頭として蒲生野合戦のしんがりを務め討死したことが太平記に記されている。
佐々木家の菩提寺にある佐々木道誉の墓の横に赤田左衛門尉栄の墓がある。(勝楽寺)
その後、永正年間(1504-1520年)には、八代後 赤田隼人正隆が一族・家臣を引き連れて八町村に移り住み、八町城を築き
犬上郡の一角に勢力を張ったのである。
隆は江北の戦国大名に成長した浅井氏被官になり、江南の佐々木六角氏との戦いに身を置いた。
その一方で、領内の水利をはかり、橋を架け、道を開くなどして領民から敬い親しまれた。
そして、61歳のとき常禅寺を建立し、家督を嫡男の興に譲ると禅三昧の生活に入り、弘治元年(1555年)に世を去った。
浅井家国人衆となり、赤田家領土は犬上郡と草野谷に存在した。
永禄5年には、隆の三男 赤田和泉守盛秀一が浅井氏の配下・草野谷に館を建立。(草野谷初代)
赤田隆の次男 赤田信濃守源姓は元亀元年 姉川の合戦に出陣。その後、天正元年 小谷の戦いにて討ち死す。
その子 赤田信濃守賢は豊臣秀吉に仕える。文禄3年に没す。子供は幼少につき所領安堵されず。
また、賢の次男が草野谷赤田家に入る。のち勘兵衛を名乗る。
赤田信濃守賢の嫡男は草野谷に身を置き赤田虎之助は関ケ原の戦いに参陣。
草野谷3代目-9代目まで代々 勘兵衛を名乗り庄屋を務めた。
11代目当主 赤田盛一は名古屋市議会議員であり実業家であった。
そして13代目 現当主である赤田義則まで至る。
赤田隼人正隆(第28代)
近江国犬上郡八町城主
曽我から甲良・豊郷の土豪
近江国守護職・佐々木・六角氏の旗頭
赤田川・橋・道路等を造るなど農民に慕われる。
曽我城から1513年に八町に館を移す。
1555年没(肖像画は没年前時)
隆の次男 赤田信濃守信光は元亀元年に姉川合戦に出陣する。
天正元年 小谷の戦いにて討死した。
赤田信濃守興(第29代)
近江国犬上郡八町城主(二代目)
永禄5年ごろ浅井長政の被官となる(家臣)
永禄11年北野荘の合戦にて討死した。
家紋:閂(かんぬき)
菩提寺の瓦や墓碑に刻まれているのを見ることができる。
釘抜紋の変形とされているユニークな家紋である。
江戸期に御紋の一菊を拝領した経緯を持つ。